公共の福祉と性悪説。



ほぼ日刊イトイ新聞「 今日のダーリン 」についての個人的備忘録。今回は、世の中はみんなのよい行いを基準に回っているというお話です。




近年つくられてるルールというのは、誰かが悪意( 場合によっては無意識の悪意 )により上書きされてつくられているものが多いなと感じるのは少数派? 今のルールのつくられ方しか知らない若い人たちは、どう感じているのだろう? 不確実なものは危ないからとか、それは結局未必の故意と言えるじゃないかと断定されるとか、そういう方向ばかりで整備が推むと、拡大解釈の方まで行ってしまわないかという不安もなくはない。





糸井重里は「信」という言葉を使って表現しました。対局には「不信」があり、それが愚かさと貧しさへの道だと示しています。




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・「信」というものは、硬い言い方になりますが、公共の財、とても大きな価値です。たとえば、あちこちの公園で子どもたちが遊んでいる。幼い子どもには保護をする人がついていますが、ある程度の年齢の子どもだったら、子ども同士で遊びます。通学もそうで、歩いて、また電車やバスに乗って、子どもだけで学校の往復をすることが日本では自然です。その無防備な子どもたちに対して、悪いことをする人がいないと、信じられているからです。外国の例だと、保護者が通学の送り迎えをすることが、当然の規則になっていることが多いと聞きました。基本的に「不信」を前提とした考え方になっているので、防御策にコストをかけているわけですよね。いずれ、日本もそっちの方向に行くのかもしれませんが、公共財としての「信」が、大人にも子どもにも、かなりの自由をもたらしてくれているとも言えます。

「ハイジャック犯は、機長がへんなことをしないと信じているんだ」という意見があります。たしかに、犯人たちは人びとの「信」を裏切って暴力的に脅迫をしているのですが、飛行機の操縦ができるわけではないですし、不注意に銃器など使って、機体を壊したりしたらじぶんたちの命も危険なことになります。脅かされている人たちを信じて犯罪をやっているわけです。

ある程度の速度を出して自動車を運転しているときには、他の前や横や後ろのクルマが規則を守っていると「信じて」走っているはずですよね。あのクルマが、このクルマが信じられないと思いながら、その万が一を避けようとしていたら運転なんかできません。膨大な「信」が、ものすごい交通量の基盤になっています。どんな不良でも悪人でも免許を取るために教習所に通い、試験場で暴れたりもせずに合格したのです。そして、なによりじぶんの命も惜しいと思っているだろう、と、みんながそう信じているのです。 「信」という公共の財を毀損するようなことをすると、罰せられるのは、それが「みんなの価値」だからです。「信じられない」と人は気安く言ったりもするけれど、「不信」は、愚かさと貧しさへの道でもあります。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 日本って「信」という富がけっこう豊かだよなと思ってね。

(2021.10.17 「 今日のダーリン 」)

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学校の校則やら、職場の小さなルールやら、起きてしまった事故を大小構わず全て防止するようにとどんどん作られて行っていて、みんなが【 それはもう仕方ないよね、(起きちゃったんだから)】と理解して受容する社会になる傾向に足を踏み入れてる気がしないでもないんですよね。禁止するルールをつくるって方法ではなくて、使ってる道具とか、怒ったことと人をつなぐ間にあるものについて画期的な何かを導入して解決する時代にならないかなぁ、なんてことを思った読了のひとときでした。



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よい文章よい気持ち

いらっしゃいませ。 ちょこちょこ、文例になるコラムを書いてあげています。 参考までに、どうぞ。

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