どっち(で)もいい。
「 どっちでもいい 」という言葉、そういえばあまり使ったことないなぁ。なんだか主観がないと受け取られそうだとか、他力本願だとか、マイナスイメージがありそうだから使わないほうがいいよと言われそうなものなのか。そうだ、外国人だったら使わないような気もするし。どうだろう、使えるかな?
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・「あの人は風見鶏だからなぁ」と言われたら、それはあんまり好意的な評価ではないと思われる。「あいつは日和見だ」と言われるのは、もっとよくないな。「彼には定見がないから」と言われるのも、うれしくない。「どっちつかず」と言われるのだって、叱られているのだ。
大阪で仕事をしていた横尾忠則さんが、東京に出てきてデザイナーとして仕事をはじめたころ、先輩の田中一光さんに誘われて喫茶店に入ったそうだ。「なんにする?」つまり、コーヒーなのか紅茶なのかだ。横尾さんが「どっちでもいいです」と思ったまま言ったら、東京ではそういう態度ではいけないんだと、どっちでもいいなんてことはない、どっちかを選ぶんだと、「叱られちゃった」というエピソードがある。ぼくも、じぶんも若いころに、そのエピソードを読んで、困ったなぁ、ぼくも「どっちでもいい」ことだらけだ、この先どうしたらいいんだろうと思うと同時に、横尾忠則という人のことがますます好きになったのだった。
ほんとうに「どっちでもいい」と思うことはあるし、それはあんまり大事に考えてないから「どっちでもいい」ということばかりではないのだ。「どっちも、いい」と思えばこその「どっちでもいい」ということだってあるのだ。相手が先に決めたら、残ったほうをよろこんでもらう、なんてことだっていくらでもある、本気で思うことだ。じぶんで決めたいときには、そう言うし、ほんとうに「どっちでもいい」という場合だって多い。
意思で選ぶからこそ後悔しないとか言われるけれど、受け身で、偶然のように選ぶことになったものを、「これがぼくのところにきて、よかったなぁ」と、あとで思うようになるのは、うれしいことだ。そいつだか、そのものと、ぼくとで、いっしょにいる時間を育てたからだとも言えるだろう。もちろん、世の中「コーヒーか紅茶か」ばかりじゃないし、覚悟のある判断をしなくてはいけないこともたくさんある。そういうことを大事に考える意味でも、そうでもないことには「どっちでもいい」はあっていい。と、思うんだけど、それを特に強く主張するつもりもない。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 いま最大の保留案件は、「シャツイン」の問題かもしれない。
2021.10月10日の「今日のダーリン」
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「 どっちもいい 」ときに「 どっちでもいい 」を言うのはやっばりちょっと違うかなと思うんだよな。「 どっちでもいい 」って、言われた方が「 (そんなこと)どうでもいい 」に聞こえちゃうから上手くないんじゃないかな。今どきはやっぱり、どっちも好きだけど今日はこっちにしようかなとか、どっちにしたらいいかな?どうしましょう?にするとか。どちらかといえばそういう言い方の方がいいと思う。まあ、それを特に強く主張するつもりはないけどね。
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